泣けばいいじゃないか。
こんにちは。(二か月前に思いつきで下書きしていた内容ですm(__)m)
最近、コロナ禍で自宅で過ごす時間も増えましたよね。
その中で、自分と向き合う時間が多くなったのではないでしょうか。
そこで、今回は「泣き」の感情についてお話していきたいと思います。
皆さんは今までの人生を振り返って、しっかりと泣いてきましたか?(なんだか宗教勧誘みたいですが。笑)
僕はものすごく泣き虫な小学生でした。私物をとられて泣いて、変なニックネームをつけられて泣いて、遊び感覚で悪口を言われて泣いて、お弁当の時間に隣の席にいた子から無理やりミニトマトを食わせられて泣いて...。と、とにかく泣いてきました。
今でも鮮明に思い出すことだってできます。おそらく、同期の中で、トップ10に入る程の泣き虫マスターだったと思います。(笑)
よく泣いていた僕は「なぜこんなにも僕は泣いてしまうのか」と本気で悩んだ時期もありました。(大体小学3~4年生の時かな。)
当時の僕はダメージを受けて自分が嫌になって泣くというよりも、家族や友達など自分の周りにいる人が悲しむ姿を想像して抑えきれなくなり泣いていたと思います。
嫌な状況に陥っている自分を見た家族はきっと悲しむだろうな。みたいな感覚です。変に考え込んでいたような気がします。
小さい頃って、「泣く人は弱い」みたいな風潮もありますよね。それも相まって、すごく泣き虫な自分に対して「ダサくてかっこ悪いな。。。」と卑下していましたね。
でも不思議なことに中学生、高校生、大学生と経るにつれ、なぜか泣く回数は減ってくるんですよね。
それとは反比例して、絶対に泣きたいと思う状況は大人になるにつれて多くなっているはずなのに。
小学生の頃って新しい経験をする機会が多く、その中で感情のふり幅も大きく、喜怒哀楽として表れやすいのかもしれませんね。
しかし、成長する過程で変に泣くことに耐性がついてしまっていて、「泣いてはダメだ」と今でも無理に感情を抑え込んで乗り越えようとしている気がします。(僕だけかもしれないですが。)
そこで僕が伝えたいことは、たとえ大きくなっても辛いときにはバカみたいに泣いていい、ということ。
しっかりと感情をストレートに出すことが大事だと思います。
実際に泣くことによってストレスを和らげる効果もあるみたいです。確かに泣いた後って心がデトックスされて気持ちよくなりますもんね!!
泣くことは決して恥ずかしいことではないと思います。
むしろ素直な感情表現です。嬉しくって喜ぶ、腹が立って怒る。と同じなんですよ。
辛いから泣く、普通のことです。
変に「いい大人が泣くのはみっともない」と感情を抑え込んで自分を殺すよりよっぽど魅力的だなと思います。
今一度、自分自身を見つめなおして、素直な感情で生きていきたいですね。
締まりきらないですが、今回はこれにて!!
お寿司自己ベスト記録更新(その過程と今後の展望)
みなさん、こんにちは。お久しぶりです。
突然ですが、みなさんはお寿司、好きですか?
僕は特別好きというわけではないですが、今の季節のようにあっさりとしたものが食べたいときによく、回転寿司屋に食べに行くことが多いです。
とはいっても僕は自分でも引くほどに小食です(笑)。普段食べるときは5、6貫食べたところで「うわ、限界かも」と感じてしまい「あかんあかん、デザート頼まな体爆発してしまう。」と最後に甘さを体に入れ、脳を満足させてから退店します。
ですが、今回の僕は一味、違います。
「お寿司をいっぱい食べて、一人前の大人になるんだ!!」
「10貫を食べきって自信をつけて、友達と同じ土俵でお寿司を食べるんだ!!」
とベッドでゴロゴロしていたところ、急に謎の使命感が沸き上がり、その突発的な思いをもってお寿司を食べに行こうと決意しました。
さらにこの夏は友達にも胸を張って言える思い出を作ろうという思いもあって掛け合わさり、お寿司10貫を食べるチャレンジを敢行しました。
今回の記録更新のために練った戦略は主に2つ。(戦略を考える時間。約45秒)
①デザートやサイドメニューを一切頼まず、お寿司だけ食べる。
先にも書きましたが、お寿司屋に食べに行くと必ずデザートや汁物も頼む僕。
別腹にさえもお寿司というデザートを入れることによって貫数を稼ごうというものです。
②たくさんの種類のお寿司を食べる。
小さいころからマグロが好きで、手を伸ばせばマグロ、鉄火巻、マグロ、鉄火巻・・・のローテーションでした。
そんな食べ方では、飽きが生じてしまい更新できない!!と自分に喝を入れ、また、今まで食べたことのないものを食べるというネタの冒険的な意味も込めてマグロ縛りを禁止しました。
以上の誰でも思いつくであろう戦略を練った僕は勇み足で某回転すし店へ。
店内に入ると土曜日の夕方ということもあり、時間を早めていったもののなかなかの混雑具合。一人で入りましたが、5分近く待ってカウンターという名の決闘場へと足を歩めていく僕。
まず、いただく前にお茶の準備。
いつもさっと淹れていたお湯の動きがゆっくりに感じました。命の危機を感じた時、人は走馬灯を浮かべるといいます。一瞬を全神経を使い超集中させ、時の流れをミクロ単位で感じ取る。これと似たようなものをお茶淹れの工程の中に感じたような気がしました。そう、これは私の中では決戦なのだ・・・!
改めて兜の緒を締め寿司を眺める。いや、寿司と対峙する僕。
作戦②を遂行し、はまちやえんがわ、いか、ぶり等、今まで味わってこなかったネタたちを口へ。はまちの噛み応えのあるほど良い厚みや、いかを食べた後の下に残るトロトロした感触を知ることができ、この地点でも寿司に対する新たな楽しみ方を知ることができたので大満足でした。流れる皿をとる手は一向に止まりません。
そしてついに、気づけば10貫をとうに越し、13貫ものお寿司を食べることに成功しました。
もう感極まりないですね。最高でした。
今まで成し遂げられなかったお寿司10貫を食べられたこと。傍からみるとなんて事のない小さなことかもしれないですが。とてもうれしかったです^^
お会計も1485円。食べて数時間たった今でも鮮明に覚えています。
が、これだけで満足している僕ではありません。
次は20貫を目標にトレーニングしていきたいと思います。
また次はラーメンを何杯食べられるのかといったことにも挑戦していきたいですね!
挑戦した暁にはこのブログでも奮闘記を載せたいと思います。
これからも何か小さなことを一つ一つ乗り越えて自信をつけていこうと思います。
(なんとも無理のある締めですね。笑)
長文読んでいただきありがとうございました。
夢という名の虚構世界
皆さん、お久しぶりですね。
前回の投稿から半年以上も空いていたことに驚きを覚える今日この頃です。
突然ですが、皆さんは夢をよく見る方ですか?
私は、ほぼ毎日といっていいほど夢を見ます。
そして見た夢は起床し、モーニングルーティーンを済ますころには跡形もなく忘れてしまいます。なんとか、必死に思い出そうとしてもなかなか内容が出てこずといった感じです。
夢の中であれ、ある日常を過ごしていることに変わりはないのに忘れてしまうことってなんだか不思議ですよね。笑
そんな「夢」に対して少々の意識を持っている私ですが、最近よく見る夢があります。
それは「中高生に戻る」という夢です。
私は夜中に睡眠時間中である0時から7時までのどこかの時間で、制服を着て思いっきり学生をしているのです。させていただいています。
この夢では姿や恰好はもちろん、そして舞台である場所も今までに過ごしてきた母校と過去のものと何ら変わりありません。
しかしたった一つ決定的に異なる点があります。それは話している人が違うところです。
全くの赤の他人というわけでもなく、むしろ同じクラスだった人で関わりの接点がなかった、あるいは少しだけしかなく深く関わってこなかった人と仲睦まじく接したり、時には私の性格上することが困難なボディタッチを軽々としたりと、自分に嫉妬を覚えるくらいにすごく楽しそうに学校生活を送っているのです。
そういえば、夢に出てくる内容は普段から思っていることや、その人自身が強く思っていることが表れやすいと風のうわさでは聞いたことがあるかと思います。
もしこのうわさが本当なら私は、本当は関わりたい人が中高生時代いたけど関わることができず多少なりともそのことに対して後悔などの思いを抱いていることになりますね。あながち間違いではないと思います。笑
最近は昨今の状況もあり、人と簡単に会うことができない今だからこそ、学生に戻るために進んで睡眠をとっているまであります。最近の小さな楽しみでもあります。
しかし、この夢に出てくる仲よくしている関わりの薄い人はあくまで私のイメージによって出来上がった像に過ぎないのかもしれません。
自分で都合のいいように人の性格を作りあげたからそりゃ仲良くなれるわけですわな。笑
逆に仲良くしていた人は自分で作らなくてもその人の性格を認識しているから特に意識することはないわけで、、、。
この中高生に戻る夢は3か月ほど前から見るようになったのですが、まるで自分のイメージだけで作った虚構世界ですよね。本当は起こる余地のないもの。
夢の中で笑っている本当は関わりの薄い友達、私。虚構でありながら理想なのかもしれません。
難しい。
おやすみ、また会って楽しいお話をしましょう。
ただの平日
12月24日
世はクリスマスムードで染まっている。
最近、駅から十数分歩くと見える広い公園にはライトアップされた円錐型のツリーが目立っておかれており、「たくさんの人に見られてあなたも大変ね。」とつい言葉をかけたくなってしまう。同時に冬到来を感じた。
今朝、通学路の途中いつもと違う方向に小学生が歩いていた。何か忘れ物をしたのかと思ったが、どうやら急ぐ素振りを見せない。さらに道を進めても、小学生が同様に歩いている。なるほど今日は12月24日。小学生にとっては冬休みの始まりなのだと知る。
僕は割と真面目な小学生だったので、この日のランドセルの圧倒的軽さには非常に驚いたのを今になっても覚えている。いつもは、六時間分の教科書、ノート、リコーダー、連絡帳など、ありとあらゆるものを収納していたが、この日はその必要がない。せいぜいもらった要らない冬休みの宿題程度だ。
あなた達にはこれからの素敵な冬休みを目一杯楽しんでほしい。そんな21歳の届きもしない想いを彼らにたくした朝だった。
毎晩、日中の鬱憤晴らしに徘徊をするのだが、今日だけは人がいない。
嘘をこけ、軒並み家の中は明るくにぎわっているはずなのに、閉じ込めるかのようにして人は大切な何かとクリスマスのひとときを過ごす。なるほど、徘徊が日課の人も今日ばかりはしないのか。継続性がないものだ。いつもの時間にはついていないはずの家の電気が太陽にあこがれて家という名の惑星に光を、そして、熱を届けている。それらが頻りに「どうだ、うらやましいだろ!」と言わんばかりに徘徊中の私を見下すのだ。一軒一軒に別に羨ましくなんかないもんとにらめっこを返す。
そういえば、ここ最近はクリスマスに何かをするという事がなくなってきた。というよりむしろない。考える方が面倒くさくなり、僕の人生経験で構築されたカレンダーからクリスマスというイベントはあえて抜いた。「何か楽しみごとがあると待ち遠しい」その「楽しみごと」を平凡に変えたのだ。違和感はない、僕にとってこれは一歩成長したのではないかとすら感じる。
それにクリスマスは誰かと一緒になければならない。誰かと一緒にいるもんでしょ?みたいな同調圧力があまり好きじゃない。こぞってクリスマスの予定を埋めようとする人を見るとなんだか哀れに思えてくる。たかがイブも合わせて2日間のためにご苦労様です。という感じに。
しかし、「クリスマス」という言葉を思い浮かべるとどこかソワソワする思いは今になっても全く変わらない。
なのにこうしてブログでクリスマスへの思いを記しているには何かあるのだろう。
そんな僕は最近ハマっているホットミルクティーを例の如くレンジで必要以上に温めてすする。冷めるのを待っているときに静かに上がるミルクティーの蒸気が人以上に愛おしくてたまらない。
サンタさん、僕は時間がほしいです。
急に複雑化した環境
最近、現状生活の終わりが見えたような気がして何とも言えない思いを抱いている。
講義の数が急減したから?学ぶ内容がレベルアップしたから?…枚挙するほどため息すらでてしまうのも今だけなのかもしれない。
果たして、今の私はかつての私が理想としていた「私」であるのか。
幼き頃「大人ってかっこいいなぁ!」「早く大人になりたい!」とうらやましくて仕方がなかったあの大人になれているのか。
とにかく子供の頃は大人になりたくて仕方がなかった。宿題がなく、時間を自由に行動する様子に当時は「なぜ大人は宿題がないのか」と子どもながらに憎悪に似た感情を持っていた。
しかし、今この現状を持った視点で当時を振り返るとものすごく自由だったのだと身に染みて痛感する毎日である。「規制」こそが自由の形成に必要なキーワードなのだと。
「大人」になってその規制が外れ、いざ前に歩もうとする。なぜか歩めない。
それまで規制が作ってきた道が広野へと変わったのだ。だからどこへ進もうが構わないが故に進み方を失った。
私の現状をひとことで表すと「複雑化」が最もふさわしい。一見、広いから進み方は無数にあると思いがちであるが、実は迷路のようにわけの変わらない、進みにくいのである。しかし残念ながらに私には素敵な明日が待っている。
そして思う。
ああ、大人にはなりたくなかったと。
僕の左手
僕の左手はとっても強い。
普段はおとなしく、右手よりは動かないけれど
この手でせわしなく動く右手をさすって疲れを癒したり、
紙に文字を書く時には文字がぶれないように紙を支えたり、
知らない間に左手がいることが何よりの支えにあることに僕は気づいてしまった。
たまにはそんな左手に安らぎを与えてみよう。
キャラクター形成
最近、私の中で「他人にとって私はどのように映るのだろう」と考えることが多々あります。
同じ私でも家族と過ごしているときの私、友達と談笑しているときの私、プライベートでの私。同じように見えて実は似ているだけで箱を開けるとガラリと違うことに気づく恐ろしさを持ちながら日々を過ごしています。
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他人の映す自分はいかにして形成されるのか。
そう考えたときにその人のイメージの根幹として一番に来るものがファーストインプレッション(第一印象)ではないだろうか。
初対面の人に対して少しでも自分を知ってもらおうと人は印象深く残るとっておきの情報を提供する。
しかし、あまりの情報過多により、それはかえってインプレッションを破壊することにもなりかねない。
「でも、相手に印象を与えたいし、、、」
と考えている人もいるであろう。
インプレッションの意味においてファーストはもちろん大事である。
しかし、インプレッションは塗り替える事ができる!と私は考える。
ここからは私の経験談(アルバイト)になる。
今、働かせていただいているところでは私は好青年であほみたいに食べるキャラクターを演じている。(せいぜい好青年と行っても謙遜したり、返事を意識したりするくらいで、食べると言っても頂いた賄いを一人で3人前を食べるくらいだ。)
これが、自分の性にあっていないと思っていたがやってみると案外楽しい。
好青年でバカ食いキャラクターを客観視した時にキャラクターを貫いている自分と向き合えることが楽しい。楽しすぎる。
素の自分と、好青年を装っている自分とを対面したときに面白おかしくて仕方がないのだ。
インプレッションの要素としてギャップも大きな力になる。私もバカ食いキャラは新しいアルバイトの場所で編み出したもので、初めてこのキャラクターを使ったときは思っていたよりも周りの人に心配されたものだ。
入って3日目の出来事。
賄いを作っている方が
「賄い食べる?」と聞いてきたので
「はい!いただきます!」と私。
多分おちょくってきたのだろう。
「3人前食べる?」と言ってきたので、
これはチャンスだ!!と思い
「はい!いただきます!!」と好青年っぽく私。
あの時の現場の苦笑を今でも覚えている。笑
「華奢な体躯である私が3人前なんてムリムリ」と思っていたのだろう。
だったら対抗してやる!という闘争心が働いてしまったおかげて何とか完食してやりました。
すると、いままで心配していた周りの人が
「おいおい、まじか、嘘でしょ」
と引くほどに驚いていた。(あれは滑稽でしたね笑)
おそらく彼らには華奢な私が食べられないような量を平らげたことのギャップが強く残ったのだろう。
それからは好青年×バカ食いキャラが出来上がり、今でも当たり前のように3人前をいただきキャラの保持をしている。(かと言って一向に体重は増えないが。)
もちろん、このキャラクターも期間限定的なもので時が経てばこのキャラクターは演じられないだろう。(血圧も気にしだすだろうから)
その時にはまた新たなキャラクターでも探そうと思う。
キャラクターは大変だけど面白い。